明治37年(1904)2月〜38年(1905)9月の日露戦争で日本海軍が使用した火薬(砲用発射無煙火薬)の全量は、当時、日本と同盟関係にあった英国からの輸入に依存していました。戦後、日本国内では無煙火薬国産化の必要性が痛感され、国内に火薬製造所を新設すべき、との議論が海軍内部よりわき起こります。その火薬製造所建設の地に平塚が選ばれます。平塚に火薬製造所が建設される背景には、江戸時代、中原を中心にかつて江戸幕府が管理した御林(おはやし)が16か所、126ha余にわたり存在し、明治以降、跡地は「御料所」となって帝室林野局の管理する広大な国家管理の遊休地がありました。大規模な火薬製造所を建設するための工場建設にみあう用地が容易に確保できたこと、明治20年(1887)の東海道線開通によって火薬製造に係る原材料と製品の輸送に利便な地であったこと、また、軍都横須賀に近いこと、相模川や金目川に囲まれ良質な地下水が比較的容易に確保できたこと、などが理由とされ、平塚が火薬製造所建設の地に選ばれるという歴史的事情がありました。
明治38年12月、日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として平塚町と大野町に跨る官有地と民有地を買収した38万坪(後に42万坪に拡大)の地に本社ロンドン、支店平塚として設立されます。
製造所の建設は、英国ノーベル社よりカリーが工場建設監督、ウィルソンが補助として来日、また日本海軍技師市岡太次郎などによって開始され、工場施設の完成は明治40年末ごろといわれます。その中で本建物は、英国人支配人の執務室あるいは住居として建設された、といわれます。また明治44年(1911)に一度火災で焼失したとされ、再建されたともいわれますが、平塚市内では唯一、神奈川県内でも数少ない明治時代の洋風建造物です。
大正8年(1919)、会社は日本海軍が全施設を買収し、4月、海軍火薬廠として発足します。火薬廠の発足後、本建物は高等官クラブ(正式名称:横須賀水交社平塚集会所)として使用され、昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠が廃廠となって、その使命を終えます。
戦後は、米軍により接収され、昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用されました。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、今後の保存と活用のため復元されました。